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山崎一夫 (プロレスラー) : ミニ英和和英辞書
山崎一夫 (プロレスラー)[やまざき かずお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [いち]
  1. (num) one 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

山崎一夫 (プロレスラー) : ウィキペディア日本語版
山崎一夫 (プロレスラー)[やまざき かずお]

山崎 一夫(やまざき かずお、1962年8月15日 - )は、元プロレスラー整体師タレント。愛称:山ちゃん。東京都港区出身。
現在のワールドプロレスリング解説者。
== 来歴 ==
都立玉川高校卒業後、1981年新日本プロレスに入門。
細身ながら、同じ頃に若手だった高田延彦らと名勝負を重ねる。この頃の得意技はミサイルキックで、初勝利もこの技でフォールを奪っている(相手はデビュー戦だった後藤達俊)。同じ技を得意としていた高田との試合は「青春のミサイルキック合戦」と言われ、第1試合でありながら観客の入りが良く、評価が高かった。
また、この頃に佐山サトル(初代タイガーマスク)の付き人を務めており、このことが後のプロレス人生やファイトスタイルに大きな影響を与えた。初代タイガーマスクが小林邦昭にマスク剥ぎをされた際には、替えのマスクを持った山崎がリングに上がり、タイガーに被らせる場面がテレビに写され、二度目以降のマスク剥ぎの際には、会場から「山崎(山ちゃん)、早く〜」という悲鳴が上がるようになった。
佐山引退(新日本プロレスを退団)後も新日本に残留して前座を沸かせていた(高田とのシングルマッチはTV中継された)。その後、佐山のタイガージム開設時に退団し、同ジムのインストラクターを務めていたが、1984年、佐山が第1次UWFへ参加することが決定した際、一緒に入団。前田日明、高田延彦、藤原喜明木戸修らと活動する。佐山のスーパータイガージムでもインストラクターを務め、佐山と共に指導者としても活動した。
1985年、佐山の第1次UWF退団時に佐山と袂を分かちUWFに残留するも同年12月、団体崩壊に伴い、他選手たちと古巣の新日本に復帰。主にIWGPジュニアヘビー級戦線やタッグ戦線などで活躍し、藤原喜明と共にIWGPタッグ王座を獲得したこともある。
1988年、前年の顔面蹴撃事件を元に新日本を退団していた前田が第2次UWFを旗揚げすると、これに賛同し新日本を退団。高田延彦と共に同年5月の旗揚げ戦から参加。以後、主要メンバーの1人として活躍する。特に旗揚げ戦ではメインイベントで前田と対戦し、それまで特に目立った活躍が無かった山崎が、切れ味鋭いハイキックで再三ダウンを奪うなど、エースの前田と互角以上の戦いを繰り広げ、新生UWFのカラーを決定付けた試合として高い評価を受けている。
1990年12月、SWSへの選手貸し出し問題を契機にフロントと選手たちの確執が表面化し、第2次UWFは崩壊。
1991年、高田延彦らとUWFインターナショナル(Uインター)の旗揚げに参加。高田に次ぐ2番手のポジションに就いた。強豪外国人が参戦した際は高田の前に対戦し、間接的に相手の情報を与えるなど、影のフィクサーとして活躍。目玉選手がいないときは自ら高田の相手となり、「困ったときの山ちゃん頼み」と言われた。この頃の山崎は、対北尾光司戦、対ゲーリー・オブライト戦など強く印象に残る試合もあるが、自身のビッグマッチでは負け続けの印象が強く、どちらかといえば不遇の時代であった感が否めない。また当時はリーボックのタイツを履いていた。
1995年7月にUインターを退団し、フリー宣言。古巣・新日本への殴り込みを表明、再復帰を果たした。この参戦には、Uインター内での確執や山崎の個人的事情が影響していると言われるが、直後に起きた新日本対Uインター全面対抗戦とは関係がなく、山崎自身、「なんで俺について来るんだよ」と語っている。また、U嫌いを公言していた当時の現場監督長州力が、山崎だけは高く買っていたのも事実である(プロレス雑誌の会見等で、Uインターの交渉窓口であった安生洋二宮戸優光らを罵倒する言葉を吐いた後、必ず「山崎はどうしてる?」、「山崎は何て言ってるんだ?」と、長州は必ず雑誌記者に逆取材をかけていたことが当時の雑誌にレポートされていた)。また、山崎のUインター退団時にはリングス(当時)の前田日明も心配して山崎に連絡を取っている。同年7月25日に当時新日本の別働隊だった平成維震軍興行における後藤達俊戦がフリー第1戦。立場上ヒールの振る舞いを見せていた山崎だったが、ファンは皆彼の「いい人」ぶりを知っており、リングに立った瞬間に大「山崎」コールを送った。
またこの年の年末(12月30日)、大阪城ホールで行われた『突然卍固め』興行において、対抗戦で武藤敬司に破れた高田延彦を元気付ける、という名目で組まれた『アントニオ猪木&高田延彦 vs. 藤原喜明&山崎一夫 60分3本勝負』の2本目に、ハイキックからの体固めで猪木よりフォール勝ちをスコアする。これは、1998年に引退した猪木の最後のフォール負けとなる。
この後新日本本体の興行にも参戦し、フリー的立場を貫いていたが、所属選手となり新日本本隊と合流。1998年G1 CLIMAXでは、藤波辰爾佐々木健介蝶野正洋と過去のG1タイトルホルダーを破り決勝進出。橋本真也との優勝戦では大激闘の末破れるも、その厳しくもけれんみの無いファイトに多くのファンが惜しみない拍手を贈った。これがレスラー人生最大の晴れ舞台だったと言ってよい(実際に山崎も後年、自身のベストバウトに橋本戦を上げている)。
またそれ以降はタッグ戦線での活躍が増え、橋本、飯塚高史(第27代IWGPタッグ王座)、佐々木健介(第32代IWGPタッグ王座)、他にUWF色の強い永田裕志、木戸修とも組み、飯塚高史を加えたユニットは「山崎隊」と呼ばれていた。特にタッグにおいて名勝負が少ないと言われた新日本マットにおいて、蝶野正洋&天山広吉組と山崎&飯塚組のIWGPタッグ王座を巡る攻防は毎回名勝負となり、ファンを沸かせた。この頃のワールドプロレスリングテレビ朝日)において実況を担当した辻よしなりは、新日本殴り込みに際して山崎が発した言葉から山崎をシェフになぞらえ、「さぁ山崎。今日のメインディッシュは何分で調理できるか、正に腕の見せ所です」といった実況がよく聞かれた。
2000年1月4日の対永田裕志戦で引退〔この引退試合では世話になった先輩の前田日明と高田延彦を招待しており、公の場で2人が並んだのは今のところ最後と言われている。〕。
現在は神奈川県綾瀬市で整体治療院を経営する傍ら、NHKで番組の司会を務めたり、テレビ神奈川でレスラーや関係者との対談番組「最強漬」を持つなど、芸能活動も行っている。またワールドプロレスリングレギュラー解説者としても活躍している。元プロレスラーらしからぬ、とても優しく判り易い口調で喋るのが特徴。一方で熱が入ると選手にマイク越しで発破を掛けることもある。特に2000年4月7日の橋本真也 vs. 小川直也戦ではヒールホールドを極める橋本に「絞めろ絞めろ!」と発破を掛けた。
2005年10月、長州力が新日本プロレス現場監督に就任したことを受け、同社道場コーチに就任。契約期間は1年。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山崎一夫 (プロレスラー)」の詳細全文を読む




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